掛川城

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天守閣夕日

貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳われました。

しかし嘉永7年安政の東海大地震により天守閣など大半が損壊し、再建

されることなく明治維新を迎え、明治2年廃城となりました。その後、

掛川市民の熱意と努力が身を結び、天守閣は平成6年に140年ぶりに

木造で再建され、再び美しい姿を現しました。

掛川城天守閣の特徴

掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。6間×5間(約12m×10m)の天守閣

本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口

に付櫓(つけやぐら)を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。

 

1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せ

た出現期の天守閣のなごりといえます。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第

の建物に、黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。

天守閣日中

嘉永七年、安政の大地震により天守閣など大半が損壊し、御殿・太鼓櫓・

蕗の門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治二年

廃城となりました。その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、

天守台や本丸の跡など一帯は公園とされてきました。掛川市民の熱意と努

力が実を結び、天守閣は平成六年に140年ぶりに木造で再建され、ふたた

び美しい姿を現しました。

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掛川城天守閣の特徴

掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、戦国時代の明応六年から文亀元年の間に、駿

河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われています。その後、遠江に

おける今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正九年から十年頃に現在の地に掛川城が築か

れました。

 

永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿

河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により

開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。

 

天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を

配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて

天守閣をつくりました。

 

 

 

 

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